人々の歩み

プロフェッショナルの登場 アンソニー

第二章 1846−1855 ②

アメリカ初期の写真に重要なモールスの二人の弟子

他にも二人、アメリカ初期の写真に特筆すべき人物がいます。アンソニーとブレディーで、二人ともモールスの弟子です。

アンソニー(Edward Anthony)は1818年ニューヨークに生まれ、コロンビア大学で一般工学を学び、1838年卒業後、Crotonの都市化のための水路建設に加わりました。ダゲレオタイプの登場は、アンソニーの丁度この時期と重なります。

初めて政府に雇われた写真家

アンソニーは余暇にモールスからの講義を受け、水路のプロジェクトが終了するころコロンビア大学のドクター・ランウイック(Dr James Renwick)か らアメリカ北部に関する測量のミッションを依頼されます。そこは当時イギリスと議論されていた場所で、アメリカ側はその場所には山岳地帯があると主張してたのですが、イギリス側は、そのような場所はないと言っていたのです。ドクター・ランウイックは、この詳しい調査記録作成のためダゲレオタイプを使うことを考え、アンソニーを雇いました。アンソニーはまさしく初めて政府に雇われた写真家です。そして、アンソニーのダゲレオタイプは政府が最終判断を下すもっとも重要な材料となりました。写真が証拠として公的に使われた最初、と言っていいでしょう。

この調査から戻り、アンソニーはエドワード(J.M. Edward)とともにますますダゲレオタイプの可能性を広げようと考え、1843年、ワシントンで議員たちのポートレイトの撮影を始めます。当時の議員であったアダムス(John Quincy Adams)の日記にはその時の様子が次のように記されています。

1844年4月12日
アンソニーの撮影の日。私は彼の指示に従ってじっと座り続け大統領(Tyler)の息子ジョンが部屋を覗きにきたことすら気づかなかった。

(ワシントン・コングレス議員ジョン・クインシー・アダムスの日記より)

アンソニーは非常によく仕事をし、ワシントンにいる全ての議員を撮影し、この仕事はニューヨークのナショナル・ダゲリアン・ギャラリー(National Daguerrian Gallery)に長い間展示されました。しかし、この価値の付けようのないほど重要な記録は、1852年火災によって肝心のアダムスのポートレイトを消失してしまったのでした。

ギャラリーを売却し、ダゲレオタイプ資材商に転身

アンソニーはまた自身のThe Edwards and Anthony Galleryを拠点に仕事をしていましたが、ここで1845年にダゲレオタイプから大判サイズのエッチング「Clay and Farwell to the Senate」を作成し1846年に出版しました。そして、1847年にはギャラリーを売却すると、ダゲレオタイプ資材商となります。資材商をはじめた当時、資材の多くはフランスから輸入されていましたが、アメリカ国内でも品質のよい製品を安いコストで製造できるようになったため、1852年からは製造と販売の両方を開始しました。アンソニーは兄のヘンリー(Henry T. Anthony)とこの会社を共同経営していましたが、Edward H.T.Anthony and Companyという名称は、設立から10年間は使用されませんでした。アメリカでいかに写真が楽しまれたかを考えるとき、この二人の業績はけして小さなものではありませんでした。

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安友志乃 Shino Yasutomo

文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。

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