人々の歩み

アンブロタイプ パテント問題と衰退

第四章 アンブロ期 ③

アメリカで根強い人気を保ったアンブロタイプ

1800年代中期以降、紙印画の写真はアメリカにとって重要な役割を果たすことになるのですが、一方でアンブロタイプの人気も衰えることはありませんでした。

なぜなら、アメリカの紙印画の写真はウイップルが1844年から長年かけて開発し、ようやくパテントにまで漕ぎ着けたクリスタロタイプが主流でしたが、これはカッティングの編みだしたアンブロタイプと比較しておそろしく露光に時間がかかり、コストの面からすれば印刷のための挿絵の線画を起こす元版としては便利でしたが、ポートレイトを撮影するには全く不向きでした。

ウイップルのクリスタロタイプも、カッティングのアンブロタイプも、一見アーサーのコロディオン法を同じように用いています。にもかかわらず、結果としてこのような開きが生まれたのは、ウイップルはアーサーのメソッドを進めて感光のためにヨウ化銀を使用していましたが、カッティングはヨウ化銀と合わせ臭化銀も用いたためです。カッティングのアンブロタイプは、このような背景から画期的な露光時間の短縮を可能としていたために、ポートレイトの需要を伸ばすことに成功しました。カッティングのアイデアは、おそらくはレン(Rehn)または他の多くの化学書から、あるいは、その昔の、ダゲレオタイプの感光スピードを上げるのに臭素とヨウ素を用いたことも参考にしたのではないか、と思われます。

パテント問題が写真の発達を妨げる

いずれにせよ、臭素を用いるこのアイデアは特筆すべき新しいことではないにもかかわらず、1854年7月11日、後にブロマイン・パテントとして知られる特許(特許番号 No.11266)の取得に成功します。

ブロマイン・パテントが有効であった1854年から1868年の間は丁度、南北戦争期にあたりますが、アメリカ政府も特許法に従って、ロイヤリティを支払っていました。そして、1868年、パテントを更新しようとしましたが、そもそもこのパテントが先に述べたようにオリジナルの開発でない、ということを指摘され、更新を受け入れられることはありませんでした。

イギリスでタルボットのネガポジ法がパテントから解放されるまでに15年の歳月を要し、そのためにイギリスは写真の発達が遅れたと言われた時期がありましたが、初期の写真は化学的な発明と深く結びついており、大なり小なり、常にパテント問題がつきまとっていました。ですから、カッティングのブロマイン・パテントが更新を認められなかったことで、多くの写真家たちは胸を撫でおろしました。

人々を驚かせた紙印画の写真

さて、当時のアメリカでアンブロタイプと市場で競争をしていたのは紙印画による写真でした。アメリカの紙印画による写真は、1856年、M.B.ブレディが海外で湿板法を学んだアレキサンドラ・ガードナーを紹介したことにはじまり、そのため、ガードナーの紙印画法がアメリカでは一般に使われることになります。

ブレディはニューヨークのインペリアル・フォトグラフにおいて、ガードナーの14×17インチ、17×20インチというサイズの紙印画による写真を紹介し、その大きさに周囲は目を見はりました。初期の紙印画による写真は湿板ネガが用いられていましたが、サイズは小さめのダゲレオタイプ、現代で言う手札サイズプリントよりもさらに小さなサイズが一般的だったからです。ガードナーの写真は衝撃的であると同時に、それはアンブロタイプを消滅させるには充分な一打となりました。

ブレディとガードナーは写真界のエリートとなり、同じように社会の中でエリートとされる裕福層だけがその巨大な写真にお金を払うことができ、12セントのアンブロタイプは相手にされませんでした。

おすすめ商品・アイテム

写真:写真のはじまり物語

写真のはじまり物語ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ

アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。

安友志乃 著 定価1,890円(税込) 雷鳥社 刊

写真:安友志乃

安友志乃 Shino Yasutomo

文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。

ブログ 水を歩く 月刊 富士山

関連記事

powered by weblio