人々の歩み

カート・デ・ヴィジットの登場

第四章 アンブロ期 ⑤

名刺のように小さなカード型写真の人気が広まる

アンブロタイプ期の終わりにもう1つ、忘れてはならない写真の形態「ファミリーアルバム」が登場します。今ではインターネットのサーバー上にたくさんの写真が保管され、気に入ったものを選ぶだけで簡単にアルバムとしてプリントをオーダーすることができますが、遥か昔には、ファミリーアルバムはとても珍しく、なにせ撮影料が高かったために、どんな家庭にもある、という代物ではありませんでした。

アルバムには、台紙にアルビュメン・プリントを貼ったカード型の写真「カート・デ・ヴィジット」(オリジナル名carte de visits photograph 通称 Carte de visiteまたはCDV)を収めていました。台紙のサイズは64 mm (2.5 in) × 100 mm (4 in)、プリントは 54.0 mm (2.125 in) × 89 mm (3.5 in)。丁度、名刺を一回り大きくした、という感じです。

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カート・デ・ヴィジットはパルマ(イタリア)のデューク(Duke)という人物が名付け親で、彼が「小さなカード」と呼ばれるプリントを作成していたことにはじまります。

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ナポレオン三世のカート・デ・ヴィジット

デュークのこのチャーミングなアイデアは瞬く間に広がり、パリで商売上手だったディスデリ(André-Adolphe-Eugène Disdéri 1819-1889) がカメラの特許を取得します。当時、名刺には美しいカリグラフィの文字が使われていましたが、写真付きのカート・デ・ヴィジットは名刺代わりにも、また友人や知り合いと気軽に交換するコレクションアイテムとしても楽しまれ、著名人のカードは販売もされました。今で言う、マルベル堂のブロマイドですね。特に人気があったのはナポレオン三世のカート・デ・ヴィジットです。

ディスデリの特許は、1857年11月27日、ステレオスコープからヒントを得た、4つのレンズに差し込み型のプレート・ホルダーを付けたものでした。つまり、このことからも分かるように、ディスデリは写真の大量生産の第一歩を踏み出した人物の1人と言えます。

アメリカでの流行

ディスデリのアイデアはロンドンに広がり、そして、アメリカにも広がりました。

アメリカでは1859年フォトグラフィック・ジャーナルでカート・デ・ヴィジットが紹介されると、まずニューヨークのブロードウェーに暮らす写真家たちが次々と宣伝をはじめます。そして、ご多分に漏れず、今まで新技術がアメリカにもたらされる度に起こった出来事がここでも繰り返されることになります。「一体誰がこの国で最初に紹介したのか」という論争です。

今回のこのアメリカのカート・デ・ヴィジット論争に名前が挙がるのはフレンドリック、ロックウッド、ホルムス、ウエッジの4人で、一番信憑性が高いのは、ロックウッドです。文献によれば、1859年の秋に自身のギャラリーでバロン・ロスチャイルドとオーガスト・ベルモントを写した、とあります。また、値下げ競争もかつてと同じように起こります。ロックウッドは3ドルで12枚、ホルムスは1ドル25枚というふうに次々に値を下げました。

ともかく、彼らの様子にもある通り、1860年にはまだカート・デ・ヴィジットはアメリカに渡って来たばかりだったわけですが、その年のうちには国中に広まることになります。

確かに、この時期にはダゲレオタイプもアンブロタイプもありましたが、価格はカート・デ・ヴィジットとは比べ物にならないくらい高かったのです。そして、ラフサイズポートレイトは大きすぎ最終的にそれらは一点を堂々とした額に入れ壁に高々と飾られるだけか、あるいは、新聞用の原稿になっていました。カート・デ・ヴィジットが一気に広まった理由は、価格もさることながら、同じカットの写真が複数一度に仕上がったため、そして非常に小さく軽かったためです。

つまり、人々はこの小さくて軽い写真を封筒に入れ送ることができました。遠くの人に送ることができる、そして誰かが驚いたり喜んだりしてくれる。大きさや価格より、むしろ、写真を通じて誰もが喜びを感じる、そのモチベーションがカート・デ・ヴィジットを広めていったのです。

ですから特に紳士淑女のみなさんは出かける際、胸の内ポケットや、小さなパースにこのカート・デ・ヴィジットを数枚忍ばせ、訪問先の玄関にはカート・デ・ヴィジット専用の受け皿が大抵はありましたから、帽子を脱いだり、手袋を外したりしながら、何気なくさらりとカードを受け皿に置くことがほとんど習慣化していました。集まったカート・デ・ヴィジットは、リビングのバスケットの中に貯められていたのですが、これがファミリーアルバムというファイルを生み出した背景です。

写真の人気が新たな産業を生み出す

人々の習慣から生み出されたれ産業化したものは多くありますが、ファミリーアルバムもその1つです。そして、ここでもお馴染みのパテント合戦がはじまります。ファミリーアルバムという形態だけで、1861年から65年のわずかな間にかけて、15のパテントが登録されました。1つ目は1861年5月14日、スイスのF.R.Grumelで、その2週間後にはアンソニー商会の名前があります。アルバムの価格帯はおよそ5ドルから40ドルまであり、高くなるほどにゴールドの装飾やヒンジの飾りが豪華になります。そして、最終的にこのカート・デ・ヴィジットとアルバムビジネスは写真産業を大きくかえることになるのです。

ファミリーアルバムに必要とされる細かなパーツや技術は、その数だけの受注業や製造業を生み出しました。ダゲレオやアンブロのような宝石箱から出発したケースとは全く異なる形態の物が必要で、しかも、それはアメリカ中にあっという間に広がったのですから、ファミリーアルバムの登場はダゲレオタイプはじまって以来の、第1回の革命期、のようなものでした。

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