産業の歩み

カメラ用品メーカー

第一章 1845-1855 ⑤

信頼のおけるダゲレオタイプ・ケースを作った3社

1840年代以降、ダゲレオタイプ・ケース業を代表していたのはペック、チャップマン、アンソニー、の三社でした。50年代初期、チャップマンは大変安くてさまざまな種類のケースを販売していましたが、同時期、アンソニーが製造を開始します。1847年になるとスコビルがニューヘブンのハル(Ogden Hall)からケースを仕入れ始めます。しかし、ハルは1849年経営が立ち行かなくなくなったため、スコビルは同じくニューヘブンのペック(Samuel Peck)と共同で制作所を持つことにしました。

1850年、ペックはユニオンケース(Union case)と呼ばれる、後に代表的ダゲレオタイプとなるプラスティックとセラミック、木、ベルベットやシルクなどを組み合わせ専用のケースを作ります。そして、ペックの親戚であるハルバーソン(Halver Halverson)がプラスチック業を開始し、ユニオンケースの製造の一部を担うことになります。これによって、ペックはより接着力のある接着剤を使用し、さらに硬質なケースを製造し、ユニオンケースの特許申請をしますが、すでにあまりにも多くの模造品が出回っていたために、特許の取得には至りませんでした。

ペックの技法を模倣したケースは、プラスチックに色をつけ鋳型に流し込んで作られましたが、ペックのケースはゆうに100を超える見事な文様がその扉にあしらわれ、ヒンジの接着性も非常に良く堅牢で、業界のトップに立ち、ヨーロッパにも輸出されました。現代でもダゲレオタイプのユニオンケースと言う場合、大方はこのペックのケースを示すことがほとんどです。その他にも、数多くのケース会社が1850年代は登場しましたが、どれも上手く行かず、結果として、ペック、チャップマン、アンソニーの三社のみが信頼のおける製品を作っていました。

ヨーロッパの品質に劣らないアメリカ製レンズが登場

カメラと光学レンズに関しては、薬品と同じようにアメリカの製造会社は数えるほどで、一般にはヨーロッパからの輸入に頼っていました。VoigtlanderのカメラとPetvalのポートレイト用レンズが一般的には使用されていました。また、ドイツ製の光学製品は非常に高価であったものの質が素晴らしく、アメリカの市場に大きな影響を与えました。高級なドイツ製を仕入れるほどの資本力のない小さな光学商は、そのため、ほとんどが潰れたのです。

ルイス(William and William H.Lewis)は、ダゲレオタイプ関連用品のパイオニアとしてカメラボックス、カメラスタンド、薬品箱、薬品用トレー、ヘッドレストなどを製造する巨大な工場をニューヨーク郊外に構えました。そして、1851年から60名から70名の工員を抱え、ニューヨーク、ダゲレビル、ハドソンの三箇所に工場を拡張しました。しかし、ランニングコストがかさみ、二年経たないうちにニューヨークの店舗のみを残し、全てを売却します。けれども、彼らのニューヨーク店はこの手のメーカーでは最も影響力を持ち続けました。

ルイスの最大の経営上の問題は、ライバルであったハリソン(Charles C. Harrison)が彼以上に光学に対する強力なバックグラウンドを持ち、カメラボックスとレンズを得意としていたことでした。1840年代、ハリソンは自身のダゲレオタイプギャラリーを持ち、光学を学び、Henry Fitzや多くの光学研究者とともにレンズを開発していました。1840年代後期、ハリソンは自身のレンズとカメラの店をニューヨークに開き、特に彼のレンズは国の主催する品評会で賞を授与し、ドイツ製よりも優れていると評判でした。1850年代半ば、スコビルはアメリカ最高のハリソンのカメラとレンズの独占代理店となっています。

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