写真で食べていく方法

メーカーでカメラを作り続けるという選択肢

文:清田麻衣子

カメラメーカー、ニコンの後藤哲朗氏は、フィルムからデジタルへ、40年以上にわたってカメラを設計・開発。写真とカメラを愛し、ライバル会社の動向にも目を光らせ、ニコンにしか作りえないカメラの開発に力を注いできた後藤氏に話を聞いた。

長年培ったニコンのDNAを次の世代に伝えていきたい

───F3、F4、F5、D3、さらにDfなど数々の名機を世に送り出したニコンの後藤哲朗氏は、30年以上の長きに渡り、ニコンのヒットメーカーとして、カメラ好きの間にその名を轟かせている。後藤さんを突き動かすものは何か。その秘訣を探ろうと取材に赴くと、会議室のテーブルにズラリと並べられた私物のカメラとともに迎えていただいた。大事に使い込まれたカメラたちが、後藤さんのカメラへの情熱を静かに物語っていた。

img_special_earning06_01.jpg 後藤氏が入社してすぐに配属された部署で。
サーマルカメラをいじっているところ。
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後藤 中学のときは写真部で、父親のカメラを借りて撮影していました。キヤノンのデミEE17が初めて買ったカメラです。1966年に発売されたハーフサイズ、36枚撮りで72枚も撮れます。今見てもいいデザインですね。これを会社に置いているのは、デザイナーに見せてプレッシャーを与えるためです(笑)。

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僕の専門は電気ですが、実はある電気メーカーの入社試験に落ちてしまいました。途方に暮れて学生課を訪ねたら「日本光学」(現在のニコンの前身)の募集があったわけです。当時はカメラなんてメカの塊、しかも趣味性の高いものでしたから、電気屋としてはそんなに忙しくないだろうと思って入りました。結局は電子化、デジタル化の嵐で大忙しの毎日でしたが。




「2〜3歳ごろ。はじめてカメラをいじっている写真です。
でもこれはカメラのケース。そのカメラで撮っているので、
カメラ自体は写っていません」(後藤)。

カメラの設計で30余年

───1973年にニコンに入社し、最初はサーマルカメラという赤外線映像装置の開発部署に配属された。医療用とか工業用のもので、現在では空港で体温を監視するような機材に発展している。その後カメラ設計部に異動になる。

後藤 入社して初めてニコン、それもF2を20回月賦で買いました。カメラ設計部に配属された際には、社員にさえも買えないような値段の世界のカメラを好きに扱えるというのは大変な喜びでしたね。

初めて設計に携わったのは、今からちょうど35年前の1980年に発売されたF3の試作段階からです。F3から始めてF4とF6まで、並行してD1の手伝いからD3系まで…。設計したカメラの数は、いわゆるフラッグシップカメラは数えるほどですが、その間に普及機とか、コンパクトカメラもありますので、私が関わったカメラといったら数はもう数えきれないほどです。

その中でも、F3とF5とD3には大きな思い入れがあります。F3はそれこそ若造で何も知らない頃、先輩に怒られながら設計したカメラです。自分で何度も分解して勉強しながら生産にこぎつけました。F3は今でも現役として使っておられる方が大勢いらっしゃいます。街中で見かけても今でもいちばん気掛かりなカメラです。

その次がF5です。FシリーズはFからF6までありますが、F5は自分が責任者として担当したカメラです。F4の時代に、キヤノンさんのEOS-1が発売となり、ニコンのシェアを持っていかれてしまいました。かつてのニコンはプロのシェアを多く占めており、中でも報道系、スポーツ系を大得意としていて、逆にキヤノンさんはニコンが余りフォローしていない、ファッションとかコマーシャル系で強かった時代です。ところが、EOS-1からあらゆる分野の市場に進出して来た訳です。

オートフォーカス、液晶と、電子ダイヤル、ボタンのデジタル操作が非常に使いやすく、それまでの旧態依然たる形から完全に脱却しました。操作形態だけでなく、キヤノンさんは新しい写真の撮り方、つまりオートフォーカスと連続撮影による新たな撮影方法を打ち出されたわけです。

これで世界のトレンドが変わり、残念ながらニコンが乗り遅れたことによって、シェアを奪われてしまいました。それが悔しくて、何とかしなければならないという想いで一生懸命開発したのが、F5です。良いレンズと共にこれが起死回生のカメラになりました。体力も神経もすり減らしましたが、F5は賞賛されましたね。EOS-1よりもオートフォーカスの測距点を多く、秒間8コマも撮れるようにして、昔から得意としていたマルチパターン測光やスピードライト性能も格段に良いものにして、とにかく確実に早く撮れるよう、「スピード」をモットーに作ったのがF5です。これがうまくいきました。残念ながら元のシェアを取り戻すまではいきませんでしたが、かなり挽回できました。F5でなんとかお客様の信頼を取り戻したという状況でした。

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Nikon F3(1980)
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Nikon F5(1996)


ライバルとの熾烈な開発合戦

後藤 それからもうひとつ思い入れがあるのは、D3です。そこにはやはり背景にキヤノンさんがいたのです。99年にニコンはデジタル一眼レフカメラD1を出しましたが、それがキヤノンさんにも火をつけたようで、さらに優秀な機種、EOS-1Dシリーズを出して来ました。D1やD2より高感度性能が良く、しかも高画素だったのです。画素数が多いので、トリミングして必要なところだけが取り出せる、しかも暗所でもノイズが目立たない。またしてもキヤノンさんが新たな潮流を作った訳です。

───満を持して2007年にニコンは超高感度・高画質のD3を発売。これはまさに、起死回生の名機となる。

後藤 もともとニコンのカメラは丈夫ですから、あとは新たなトレンドを先取りした機能や性能を達成し、使いやすくすればプロには絶対的な信頼を得られる。手前味噌ですがD3はそういうカメラになりました。

実はキヤノンさんを含めてライバルメーカーの方々とはよくお会いします。カメラ雑誌で対談をしたりもしています。ただ機種が代替わりするとあちらは開発責任者が変わっているのです。でもニコンは私がはずーっと責任者。販社の作戦に乗ったのが発端で、96年のF5からD3まで、10年くらいは開発責任者として前面に出ていました。最近はDfで久しぶりに出させていただいています。

これだけ長い間部署や担当を変わらずにいるのは、弊社でも珍しい例です。職業写真家からは機能の良し悪しやライバルとの優劣、さらに趣味嗜好品ですから、一般のお客様からは好き嫌いで判断されてしまう。記事を書いていただくような取材時だけでなく、何かあって担当者を呼べと言われたときに、「私は担当ではない」という対応ではよろしくないですよね。その点、責任者として私が出ていけば、先方には責任の所在がはっきりするし、怒られても一貫した話が通せるわけですから。最近のようにビジネスが大きくなると、つい分業が進みすぎてそうは行かなくなることは良くあるのですけれど。そのかわり自分一人で対応する訳ですから、いろんな細かい説明や弁明をしなくてはなりませんし、こっぴどく怒られることもあって一苦労でした。場合によっては、他社のカメラを使っている人に、ニコンに乗り換えてもらう説得もしていました。そういう仕事もこの10年だけでなく、今でもそのような外向きの仕事が自分と研究室に与えられたミッションのひとつです。

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Nikon D3(2007)
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Nikon Df(2013)

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Dfはロゴにもこだわりが。通常はニコンのロゴは斜体だがカメラのイメージに合うよう正体にした。

───ライバル企業は、一眼レフの市場ではキヤノンになるが、オリンパス、カシオ、シグマ、ソニー、パナソニック、富士フイルム、ペンタックスリコーなど、フラッグシップ機だけではなく中級機、ミラーレス、コンパクトも含めていくと、国内だけでも競合メーカーはどんどん増える。

後藤 ニコンを使っていた人がある理由で他社に乗り換えるということはよくあります。もちろんその逆もあります。ただ、一式のレンズを含める100万円を軽く越す機材をいったん全部売って乗り換えるというのは相当なことです。どんな事情があるにせよ、ニコンを使っていただけるようがんばらないといけない。そのためには、機能、性能や信頼性においても、それなりの価値がある機材を打ち出さないと意味がありません。


後藤研究室を発足

───2009年からは「後藤研究室」という部署を発足。この部署は、文字通り後藤さんがトップとなり、研究するのは「ニコンのDNA」であるという。

後藤 後藤研究室はニコン映像製品にあるべきDNAの維持と向上を旨とする部署です。既に電機メーカーが得意とするデジタル技術の時代になって来ていますので、長年「写真機メーカー」として生業を営んできたニコンのDNAはともすると危機に直面してしまう。いわゆる飛び道具だけで勝負したら電機メーカーには到底かなわないですよね。

そうなるとニコンの立ち位置はどこなのか。丈夫であるという信頼性だとか、実際に使いこなす道具への喜びがある点も重要になってきます。長年培ってきたそんな事がニコンの大事にすべきDNAではないかと思うのです。綺麗な動画、便利なWi-FiやGPSなどで新しい事ができたとしても、それはそれで現代のデジカメにはなくてはならない機能ですが、ニコンが提供する写真を撮るカメラってそういう面だけではいけないだろう、ある意味写真機としてのカメラネスをちゃんと忘れないようにしようと発言する部署です。

主な役割としては、新商品の企画時や試作品の評価をする際に意見を言うこと。例えば、最近は図面を3D CADで作りますから、あたかもきれいに動くように見えてしまう。でもパソコンの画面上だけ、机上の結論だけで満足してしまうと、時折り忘れ物や落し物があるのです。そういうのを見つけたら黙っちゃいないと言う、いわばうるさがられる立場ですね(笑)。

それから二つ目は、お客さんの中に入っていって、意見を吸い上げてくるというミッション。お客さんの集まりや、ライバルメーカーのユーザーに会いに行ったりなど、ニコンに良い事も悪い事も情報収集してその意見を吸い上げ、社内会議のときに声を大にして代表意見を主張する訳です。

三つ目の役割として、「DNA維持向上のための開発活動」も許されています。つまり新しい技術や商品を開発しても良い、ということです。そうやってようやく生まれたのがDfです。Dfは、後藤研究室でプランニングし、お陰様で評判を生んだカメラです。デジタルカメラだけれど昔のフイルム時代のカメラのような操作感を楽しんでいただこうと。しかもそういうことをやるのはニコンしかいないだろうと思って。

実際にはいろいろな出来事があったために発売まで時間が掛かってしまい、ライバルメーカーから似たようなコンセプトのものが先に出て来ましたが。

フィルムカメラしか知らない方が初めてのデジタルカメラとしてDfを買ったと言う話を良く聞きます。そのような方々からも大変良い評価をいただいています。花鳥風月をノンビリと時間をかけて撮るような方に向けた、研究室のメンバーや私自身が欲しいと思ったカメラで、単純に「普通の一眼レフではつまらない」と思ったところから始まっています。ニコンの社員であっても、自分たちだって一般のお客さんと同じ、同じような考えを持っている人はたくさんいるだろうという想いから出発したカメラですね。

評判は大変良いので、実際にはもっと売れると嬉しいのですけれどね。

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車も趣味。現在の愛車はトヨタの「86」。そして愛車の中には愛機がズラリ。
いちばん左は蛇腹式のセミビクター。


───とにかく写真、カメラが好きだということ。この一点が現在の後藤さん、およびニコンを牽引している原動力である。後藤研究室とは、まさにニコンの精神的支柱と言えるかもしれない。

後藤 写真家の高梨豊さんがおっしゃっていた言葉ですが、高梨さんに承諾をいただいた上で、僕が新入社員に言っている言葉があります。

「初心忘るべからず。写真忘るべからず」です。写真部だったという新人もいますが、デジカメビジネスで会社組織が大きくなりますと、実はカメラが好きでも何でもない、紆余曲折の末に入社して来た人の方が遥かに多いと思います。そういう新人に向けて、「カメラをいじらないと意味ないよ」、「自分の会社のカメラを使おうよ」、「他社のもイジってみようよ」と言っています。どれがいいのか悪いのか、自分で判断しないと良いカメラはできないのです。

一方で、もしどうしてもカメラや写真に興味を持てない人がいるでしょうから、その場合には完全な歯車になれと僕は言っています(笑)。とにかく中途半端はいけない。また、だんだんキャリアを積んで、仕事にかまけてくるとカメラをいじらなくなってしまう傾向があります。だから年寄りにも同じ言葉を言っています。そんな生意気を言っても、僕が撮るのは宴会の記念写真ばかりですが(笑)。

img_special_earning06_12.jpg 趣味のスカッシュで汗を流す。

<追記>

皆様ご存知の通り、2017年6月末で後藤研究室が閉鎖されました。
後藤哲朗氏からのコメントを以下に掲載します。

後藤研究室を約8年間運営して参りましたが、先月末にて閉鎖となりました。
室員はさらに適切な部署に異動となり、自分自身は映像事業部長のサポートを仰せつかっております。
実は、直接の部下こそいなくなるのですが、今後の行動がこれまでと大きく変わることはありません。

研究室メンバーに対するこれまでの皆様のご愛顧とご援助に対し、改めまして心より御礼を申し上げます。
これまでの活動を介した皆様の声がニコンの製品・サービスに生かされたもの、逆にまだまだ足りないものなど、成果はまだら模様であります。
今後一層努力して参りますのでどうか宜しくお願い致します。

後藤哲朗

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