2011年03月17日
あるアメリカ人のルーツをたどり、開拓時代の様子を知る
日本人であれば、多くの家庭で、いわゆる「本家」に行くとお仏壇の中に「過去帳」があるのではないかと思います。故人の戒名と年齢、死亡した年などが記入され、家系の歴史を見ることができます。しかし、アメリカには「過去帳」に匹敵するものがありません。つまり、どんな祖先がいて、彼らがどこに暮らし、そして、アメリカの大地で第一歩を踏んだのは一体誰だったのか、調べる以外に手立てがないのです。
1970年代後半、わずか6回連続放送の「ルーツ(Roots)」は、黒人問題と正面から向き合ったばかりでなく、当時こうした祖先に対する興味を人々に喚起しました。そのことは45%という視聴率の高さでもうかがえます。自分の祖先はどんな人達なのか、この放送を機に調査を始めた人達もたくさんいます。友人の父親もその一人で、彼は父親方の祖先を遡る費用として当時2500ドルを調査会社に支払い、結果が出るまでに1年かかった、と友人が話してくれました。しかし、その資料も完璧ではなく、父親が個人で保管していたために他の家族は内容をほとんど知らされず、結局、紛失してしまったようです。
そこで今回、開拓時代の人々の様子をさらに具体的に知るために「あるアメリカ人の祖先の歴史」として、この友人に協力してもらい、友人の家系を全て遡ることにしました。そして、開始してみると、さまざまなことが見えてきました。
目を引く子供の数の多さ
調査方法としては、インターネットを使用したのですが、わずか2日目にして4代目まで遡り、名前と出生年、死亡年齢の分かった人物たちは延べ370名を突破。政府が公開している出生届、死亡届、転入転出、婚姻届のデータベースの他に、その他大勢の人達がインターネットを通じて家系を調べているために、彼らのデータにもアクセス。また、70年代以降、インターネットの普及まで多くの人が紙とボールペンを大量に使って法務局に実際足を運んで調べており、そのデータや、お墓探しのマニアや、苗字にこだわって調べている研究者のデータ、税金や移民のデータなども参照しました。
さて、この調査の中で興味を引いたのは、その子供の数の多さです。友人は現在50代で独身、そして友人の姉妹は離婚していて誰にも子供はいません。つまり友人の代はここでストップするわけですが、彼らの両親は彼ら4人の子供をもうけたことになります。そして、2代前の祖父には8人の子供、3代前には13人、4代前には18人の子供の存在が確認できるのですが、1800年代から遡って1700年代ぐらいまでは平均でどの家にも15名以上の子供がいて、最高は21名。避妊や堕胎が行われなかった、ということもあるのですが、荒野の真ん中で生きてゆくためには労働力として子供が必要だったのです。
また、一方では死産も多く、過酷な生活環境や医療が行き届いていない中でお産の時に死亡する女性も多く、中には36歳で妻が亡くなり8人の子供を再婚することなく1人で育て上げた、という男性もいます。そして、意外にも離婚、再婚が多く、そのため最終的に一家の子供の数が大きくなる傾向もあります。
何代も同じ住所に留まるが、名前や苗字の表記は変化していく
転入転出を見てゆくと、大方は同じ住所に何代も留まります。婚姻に関しても、地図を照合しながらたどると、ほぼ全ての婚姻が隣の集落あるいは近所から、ということになります。これは、交通手段が徒歩か馬車であったために、最高で10キロから20キロ範囲で日常に知り合える相手から選ぶ、ということを意味しています。ですので、ルイジアナに暮らしてケンタッキーから嫁をもらう、というようなことはほとんどありません。50キロ離れたところからですら、途方もなく遠いところから嫁ぐ、という感じです。
そして、これら1800年代以降のデータには多くの名前や苗字の表記の書き換えがあります。現在では、名前や表記そのものを変えることは何段階かの法的な手続きが必要になりますが、かつてはそうではなかったのです。現在のように本人やその代理人が書類を一旦記入したものを本人が申請した証とするのではなく、多くの場合、ほとんどの人が読み書きができなかったために、役所に届出をする際も役所の担当者がインタビューを行ない、口頭で伝えられた音を担当者が予測して表記していた、ということがあります。
その表記も転入転出の際、本人や担当者が勝手に簡略化したり、その時代に合った表記に書き換えられたりします。例えば、TeddeltonがTedetonになったり、WadeがWaidと変化したり、というようにです。いずれにせよ、こうした行政との付き合いは、生き抜くことに比べれば、彼らにとってあまり意味を持たず重要なことではなかったのかもしれません。
インディアンの人々の記録
また、先住民であるインディアンの人々のデータは探すことが困難です。これは当時、白人は彼らを登記させる対象として見ていなかった、ということです。かつてのインディアンの人々の記録の特徴は、年号はほとんど意味を持たず、多くの場合、ラビットダンスのプリンセスで鷹狩の名手の娘、美しいビーズワークの手の持ち主、というふうにその人の能力やどのような文化センスの持ち主かが示されています。新大陸を目指してきた人々の記録方法が文明的であるとするならば、その血族の記録方法ははるかに文化的であった、と言えます。そして、大変に残念なのは、入植者たちとの婚姻によって、彼らがインディアンとしての氏名から英語名へと名前を変えた、ということです。
さて、友人の祖母方の祖先は、1722年11月4日頃ペンシルベニアにアイルランドからやって来たモーゼス・ホワイトという人物、ということが分かりました。おそらく、今後も一人ずつ調べてゆくと更に新たな発見があると思われますが、家系を辿ると膨大な数の人々とのつながりが見え、その面白さにルーツ探しを生涯の趣味にしている人もアメリカにはたくさん存在します。
写真は1940年代、移民した人々に配られた手帳(安友個人蔵)
写真のはじまり物語ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ
アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。
安友志乃 著 定価1,890円(税込) 雷鳥社 刊