アメリカ付記

開拓時代の人々 住居

現在のアメリカの平均的な住居、ジャイアント・ハウスにはほど遠く

アメリカの住居というと、巨大なジャイアントハウスを想像される方も多いと思います。時々、そんな巨大な家の立ち並ぶ通りを車で通過すると、まるでアミューズメント・パークの一角のような不思議な印象があります。アメリカでごく平均的な生活者がこのジャイアント・ハウスに暮らすようになったのは1980年代からと言われていますが、その昔の一般的な住居は、さほど大きなものではありませんでした。

ちなみに、私の住んでいる家は1930年代の木造のコテージハウスと呼ばれる作りで、バスルーム、寝室、リビング、キッチン各1ヶ所ずつで、うさぎ小屋に暮らしなれた私の目から見てもそんなに広くはありません。しかし、立てられた当初には、ここに6人家族が住んでいたと聞きました。

人づてに聞いた情報を頼りに居住地探し

さて、開拓時代の人々はどうやって住居を決めたのか、ということなのですが、まず当然のことながらアパート・マンション情報も、きちんとした不動産屋さんもありません。

家族と家財一式を馬車に積んで西に移動しながら、なんとなく人々が集まって暮らしている町の入口らしき所にたどり着きます。そして、大抵そこに必ずと言っていいほどある雑貨屋に立ち寄って「どこかいい場所はないかね」と尋ねると、ここからさらに西に5キロほど行くと大きな木があって、川も近くにあるしウサギもいるよ、なんていうふうに情報をもらい、行ってみると、360度大平原、隣近所なし、水の確保ができてハンティングの獲物もいそうな最高の立地があるわけですね。

馬車で寝泊まりしながら、まずは壁と屋根が完成

春から夏のはじめにそんな場所を見つけて、しばらくは馬車で寝泊まりしながら、冬までの間にとりあえず壁と屋根が完成し、狼の群れに襲われなくても済むようになります。もちろん、床は後回しか、ないのが普通でした。ベッドは木枠を作って枯れ草を積んで固め、その上にブランケットを広げてでき上がりです。つまり、住居に対する大きな取り決めはなく、だいたいこの辺りが我が家、という感じで、敷地というものもあってないようなものでした。そして、木と紙が日本家屋の主となる素材ならば、アメリカの家は、木と岩ということになります。

明かり取り用の窓は一応ありましたが、壁板をくり抜いて、その板を下から突っかい棒で押し上げて外気や光が室内に入るようにしていました。布の余裕があればカーテンも取り付けられましたが、外からのぞく人もいるわけでなし、ないのが普通でした。

ガラス生産が始まっても窓用はぜいたく品だった

さて、「写真から映像へ/人々の歩み 一般への普及」で1840年代初めの話として「地方都市には、明かり取り用のガラス窓のある手ごろな大きさの町工場があった」と説明しましたが、アメリカは広く、どの時代のどこの地域の話か、によって、こうした環境は大きく異なります。内陸部の本当に人々が農業を目的に入植した地域では、1800年代終わりになっても、窓にガラスまではなかなか手が回りませんでした。

ガラスはヴァージニア州に入植したヨーロッパからの人々が生産をはじめ、18世紀末には工場生産が行なわれるようになりましたが、まず飲み物や薬品を入れる保存用のビン類から生産がはじまり、窓ガラスはぜいたく品でした。ですので、内陸部の一般の入植者達は、同じ種類のビンをかき集め、揃えて逆さに並べ、窓に取り付けて窓ガラスの代わりに使用していたのです。また、窓の下の方のサンには、毎月一定の日に日足がどこまで伸びたのかナイフで刻みを入れて、季節の目印として農作物の植え付けの目安にしていました。

住居ばかりでなく、ロウソクや石鹸といった日用品や農機具、家具類まで全て自分たちで作っていたわけですから、生活するとは本当に大変な労力だったと思います。

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安友志乃 Shino Yasutomo

文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。

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