2010年02月26日
人類の歴史を塗り替えた二人の歴史的邂逅
フランス学会(1839年8月19日)でダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre)が世界初の実用的な写真術の詳細を公開して一ヵ月後、アメリカの主要都市では新聞を通じてこのダゲレオタイプ・プロセスが知られることになります。ここからアメリカのアマチュアたちの仕事がはじまるわけですが、アメリカの写真史上、初のアマチュアとなったのは、テレグラフの発明で著名なモールス(Samuel Finley Breese Morse)でした。
実は、モールスは、ダゲールのフランス学会でのプロセス公開より5ヶ月ほど前(1839年3月7日)にフランスにテレグラフの特許を申請に訪れ、ダゲールと個人的に面会し、テレグラフを見せることを交換条件にダゲレオタイプ・カメラとプロセスを見せてもらっていました。テレグラフとダゲレオタイプ・プロセス、人類の歴史をいずれ大きく塗り替えることになるこの二つの道具の発案者の接見は、今にしてみれば、まさしく歴史的なできごとでした。
そして、ダゲールがモールスに気を許したのは、モールスがすでに科学者として著名だったからです。ダゲールはモールスに接見の最中、メモを取ることを許しました。モールスはダゲールの解説を受けながらダゲレオタイプ・カメラとプロセスの詳細を112ページのメモとしてノート一冊を使い図解を含め丸ごと記録したのですが、ダゲールの立場を踏まえ、フランス学会以前にこのメモを公表することはありませんでした。
タゲレオタイプに改良を加えていった化学者たち
モールスがアメリカに帰国し、ニューヨークの自身の発明したテレグラフの製作者プロッシュに具体的にダゲレオタイプ・カメラの製作を依頼したのは、フランス学会の公開を受け、その詳細がニューヨークの新聞に記事として記載された1839年9月のことになります。モールスはまた「この9月には早速イギリス人を含め何人かがダゲレオタイプの習得を始めた」と記録しています。
1839年9月30日付けのモーニング・ヘラルドではそのうちの一人、9月27日にセントポール寺院を撮影したニューヨークに住むイギリス人シーガー(D.W.Seager)の様子が伝えられました。この時の露光時間は8分から10分かかり、ヨーロッパと比較して露光時間が短いのはアメリカの光のほうがより明るいためである、と記されています。しかし、このダゲレオは「色調がまるでカメレオンのようである」との酷評もつきました。シーガーはモールスの弟子であり、そのためこの酷評を目にしたモールスは、シーガーを庇護するためにモーニング・ヘラルドにクレームを入れています。
シーガーはその後、数ヶ月にわたりダゲレオタイプ・プロセスのレクチャーを行い、後に紹介する初の露光時間表をつくり、以降メキシコに移り住んでいます。シーガーに関する記録は非常に乏しいのですが、彼は間違いなくアメリカの写真史上、重要な人物の一人です。
初期のダゲレオタイプ・プロセスに挑戦したアマチュアたちは、その他、医者で化学者でもあったチルトン(Dr. James Chilton)、大学教授であったウエスト(Prof. C.E.West)、化学者のドレーパー(Dr. John William. Draper)が挙げられますが、特にドレーパーは、生理学や哲学の分野でも知られ、ニューヨーク大学のモールスの関連する研究所の研究者でもありました。ドレーパーはその知識を生かし、薬品と光の関係をさまざまに組み合わせ、改良を重ねながら最良の組み合わせを導き出し、また、ダゲレオタイプに最も影響するカメラとレンズ、それに光線の関係にも着目し、理論的な改良を行いました。
化学研究から始まった撮影の更なる向上
1839年10月16日(一説には9月25日)にはフィラデルフィアでセクストン(Joseph Saxton)がセントラル・ハイスクールからの眺めを写し、同じくフィラデルフィアの金属加工所とロウソク工場に勤めていたコーネリアス(Robert Cornelius)や、ペンシルベニア大学で化学を専門するW.R.ジョンソン(Prof. W.R.Johnson)とゴダード(Dr. Paul Beck Goddard)が撮影を行いました。
ボストンの大学教授であるグラント(Prof. Grant)とデイビス(Mr. Davis)はダゲレオタイプ・プロセスが新聞に掲載された三日後には撮影を開始しています。しかし、ボストンで最もきわだった美しいダゲレオタイプを初期の段階で作ったのは、何と言ってもハル(Edward Everett Hale)でしょう。彼は教会(ボストン・チャーチ)を撮影しました。
また、フィラデルフィア、ボストンに類する小さな都市では、短大や大学を卒業した何らかの化学の素養のある者たちがまずはじめにダゲレオタイプに挑戦しました。遠く離れたケンタッキーですら1839年の秋にはダゲレオタイプで撮影を行っています。ブッシュ(Drs. Bush)とペーター(Dr. Robert Peter)は、レキシントン市外のペンシルベニア大学に在籍し、大学に新しく開設する医学部のために市から15000ドルの予算を委託され、ロンドンへと送り込まれました。ブッシュは、その費用はリサーチを行うに十分であり、多くの知識を得られ医学部の開設に大いに役立つであろう、と家族宛の私信に記しています。
彼らは化学研究を目的として、ダゲールがフランス学会で公開したものと全く同一の機材一式と知識を持ち帰り、この功績によって化学のフィールドは一気に広まりました。これらの機材は1839年秋にはトランシルベニアに到着し、ペーターは早速ダゲレオタイプを使い、テリーランド(Talleyrand)のデスマスクを撮影しています。
写真のはじまり物語ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ
アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。
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