2010年06月23日
アートの才能に恵まれたダゲレオタイピスト
アメリカ写真の歴史上、もっとも著名であるのは、ブレディ(Mattew B.Brady)です。ニューヨークのアイリッシュ系移民の彼は1822年生まれで、幼い頃彼は、アメリカの肖像画家ページ(William Page)に出会っています。ブレディはページによって絵の手ほどきを受け、絵描きとなることを志します。またページはモールスの友人でもあり、ブレディとページはモールスの初期のダゲレオタイプに立ち会うことになります。そして、ブレディはすぐにこの銀板に魅了されモールスに手ほどきを受けましたが、この時、ドレーパーもブレディのダゲレオタイプの習得に協力しています。
1844年、ブレディはニューヨークのBroadwayとFultonの角に自身でビルの最上階を借り受けビジネスを展開し始めます。これは、ドレーパーのニューヨーク大学最上階の研究室と、モールスのビルに対抗するものでしたが、ブレディのビルはどちらとも異なり、何箇所からもスカイライトが入るよう改築されました。現代のスカイライトを取り込んだ近代的なスタジオは、彼のこのスタジオのメソッドを元にしています。また、ブレディは不屈の精神の持ち主であるとともにアートに非常に才能がありました。この年、The Annual fair of the Amrerican Instituteにおいて、ダゲレオタイプにも賞が贈られることになり、結果としてダゲレオタイピストの数を大幅に増やすことになりましたが、中でもブレディは突出した才能がありました。1845年、彼は賞を受賞し、特に46年は最優秀賞を受賞しました。
歴代大統領、南北戦争を撮影した“ジャーナリズムの父”
1845年、ブレディはアメリカの化学にその名を残すであろう人々のポートレイトを撮るプロジェクトをスタートさせ、1880年までの間、精力的に多くの化学者たちを撮影しました。この時期の化学者のイラストレーションの下にはほぼ全て”Photograph be Brady”とクレジットが記されており、これはブレディのダゲレオタイプから起こされたものです。ブレディはまた、ダゲレオタイプが登場してから以降のアメリカ大統領(William Mckinleyまで)、19人の大統領中一人を除く18人をダゲレオタイプに収めました。
ダゲレオタイプがアメリカで始まったころは、第九代大統領ハリソン(William Henry Harrison)の時代でしたが、ハリソンは当選して一ヵ月後に亡くなり、ブレディはビジネスをはじめたばかりでした。また、第七代大統領ジャクソン(Andrew Jackson)は1845年に亡くなり、その際は現地にオペレーターを派遣しました。第十一代大統領ポーク(James K. Polk)は1849年2月14日、大統領に着任して早々「ニューヨークからブレディを呼び寄せ、官邸のダイニングルームで着任早々の私を写させた」と日記に残しています。そして、中でも有名なポートレイトは第十六代大統領リンカーン(Abraham Lincoln)でしょう。ブレディの写したリンカーンは、後に5ドル札とペニーコインに使用されます。
ブレディは撮影に便利なようにギャラリーをワシントンにも出店し、南北戦争期の大統領たちからは「Civil war photographer」と慕われ、現代では「ジャーナリズムの父」とも呼ばれています。多くの彼の残したポートレイトは歴史の中で失われましたが、それでもなお、彼の業績は非常に重要なものがあり、残されたダゲレオタイプは全てその後ガラスネガにコピーされ現存しています。
大統領から市民のポートレイトまで、膨大な仕事を可能に
またブレディは自身でも政治家専門のダゲレオタイピストであると公言してはばかりませんでしたが、実際は多種多様の人物をポートレイトに収めています。1856年Frank Leslies Illustrated News Paperには製造業者、技術者、弁護士、バレリーナ、チェスプレイヤー、俳優、造船業者、漁師、消防士など多くのブレディのダゲレオタイプをイラストとして複製した多種多様な人々が掲載されています。そして、これは、公人でない市民が写されポートレイトとして掲載された最初と言っていいでしょう。
このことからも分かるように、彼の仕事は時に大統領を写し、戦場に赴き、膨大なポートレイト撮影と広範囲に渡るわけですが、これを可能にしたのは、多くのオペレーターとダゲレオタイピストの雇用でした。そして、「Photo by Brady」というクレジットの元、その多くを彼らがブレディの代わりに行っていました。例えば、南北戦争期にはガードナー兄弟(Alexander Gardner、James Gardner)、オサリバン(Timothy H. O'Sullivan)、ペイウェル(William Pywell)、バーナード(George N. Bernard)、ローチ(Thomas C. Roche)他17名の写真家を雇い入れ、暗室を設えたワゴンをそれぞれに与え戦場に向かわせました。そして、ブレディはワシントンのギャラリーで仕事をすることが多く、自身が戦場へ赴くことはほとんどありませんでした。ブレディの投下、彼のクレジットで発表するということはブレディ自身のアイディアでしたが、今にしてみると、大統領のポートレイト以外、いったいどれがブレディの手によるものなのか、判明することはできません。
南北戦争期、彼は100,000ドルを使い約10,000点を撮影しこれを政府に買い取るよう話を進めましたが成功せず、ニューヨークで売りさばこうとしますが失敗し、25,000ドルの負債を負うことになります。その後、視力と妻を亡くし、1896年孤独のうちにニューヨークで亡くなりました。
写真のはじまり物語ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ
アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。
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- ペーパー・ネガティブからガラス・ネガティブへ
- タルボタイプ(カロタイプ)の発展しなかったアメリカ
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- さまざまな被写体の可能性
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- 価格の低下
- 世界を牽引するアメリカン・ダゲレオタイプ
- プロフェッショナルの登場 ガーニー
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- プロフェッショナルの登場 アンソニー
- プロフェッショナルの登場 プランビー
- プロフェッショナルの入り口で
- 一般への普及
- 失意のアメリカ写真の父
- ウォルコットとジョンソン
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