2010年07月13日
賞賛を浴びるブレディの前に現れたライバル
1850年代に入ると、どの大きな都市にも美しいダゲレオタイプを作るダゲレオタイピストが登場しますが、世の中が恐慌からの復興の途中であることに変わりはなく、新しい職を見つけることはとても困難でした。ですから、こんな状況の中でプロとして活躍するブランピー、アンソニー、ブレディへの賞賛はひとしおでした。
そして、1850年代の終わりには、50歳以上でダゲレオタイプを専業とする、と職業申告した人口は938名となりました。思ったよりも少ないと感じるかもしれませんが、これは専業人口で、多くは先に述べたようにダゲレオタイプを副業としていました。60年代に入るとダゲレオタイプ専業者数は50年代の約3倍となります。つまり、50年代のうちに2000人近くがおそらく副業としてダゲレオタイプを習得しようとしていた、と見ていいでしょう。
つまり1850年代は、ダゲレオタイピストの競争が一気に激化したわけですが、それまで、優勢を保っていたブレディでさえ実際この競争を勝ち抜くことは難しくなっていました。中でも強力なライバル、ガーニー(Jeremiah Gurney)が現れたからです。ガーニーはサラトガで宝石を扱っていましたが、ニューヨークへ移り住みモールスにダゲレオタイプを学び、ダゲレオタイピストに転向しました。そして、1840年ブロードウィーにギャラリーを開き、一人5$で撮影を開始します。
極限まで色調を引き出した究極的に美しいダゲレオタイプ
ガーニーはダゲレオタイプ・プロセスにおいて極限まで色調を引き出すことを追求し、究極的に美しいダゲレオタイプを作り出しました。彼は、クライアントをニューヨークに暮らす政治家やセレブレティの中から選りすぐり、時代を象徴する選りすぐりの人々、と呼び、ブレディに対抗しました。そして、最も素晴らしいダゲレオタイプを作る人物として知られるところとなります。彼の輝かしい仕事ぶりについては1846年12月5日付けThe Scientific Americaや1853年New York Illustration Newsなどで取り上げられました。またアメリカのみならず、ロンドンのクリスタル・パレスにおいても作品が展示され世界中でその名を知られるところとなります。1858年には770 Broadwayに三階建ての真っ白い総大理石のスタジオを建てます。ガーニーはブレディと同じように当時の写真家たちを牽引しました。
余談ですが、アンソニーは当時、ガーニーとブレディそれぞれにスペシャル・エディションのダゲレオタイプ・ケースをデザインし納品しています。ガーニーは大いに成功したと同時に、彼のギャラリーは長男ベンジャミンへと引き継がれました。
写真のはじまり物語ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ
アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。
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- コンプレックスを抱える男女のラブストーリー|デジタル短編映画「半透明なふたり」
- 博報堂プロダクツ シズルチームdrop 初の映像作品「1/2」
- カート・デ・ヴィジットの登場
- アンブロタイプの終りに
- アンブロタイプ パテント問題と衰退
- アンブロタイプから紙印画へ
- アンブロタイプのはじまり
- コロディオン法の登場
- ペーパー・ネガティブからガラス・ネガティブへ
- タルボタイプ(カロタイプ)の発展しなかったアメリカ
- 言葉の誕生「Photography」「Positive」 ハーシェル
- ネガポジ法のはじまり タルボット
- さまざまな被写体の可能性
- カラーへの欲望 ヒル
- 価格の低下
- 世界を牽引するアメリカン・ダゲレオタイプ
- プロフェッショナルの登場 ガーニー
- プロフェッショナルの登場 ブレディ
- プロフェッショナルの登場 アンソニー
- プロフェッショナルの登場 プランビー
- プロフェッショナルの入り口で
- 一般への普及
- 失意のアメリカ写真の父
- ウォルコットとジョンソン
- ドレーパー
- モールス
- 露光時間
- 初期の化学者たち