人々の歩み

一般への普及

第一章 1839-1845 ⑦

失業者があふれる街で、ごく一般の人々がダゲレオタイプを始めた

アメリカは、1837年5月7日それまでの金銀への投機ブームによるバブル経済が破綻しはじめ、あらゆる銀行が支払いを停止するという状態に突入していました。押し寄せる入植者が職を見つけられるはずもなく、特に1839年から1843年にかけての失業率は記録的で、街は新しい職を求める人々であふれかえっていました。

ダゲレオタイプは中でも、人々の憧れの職種でしたが、その職を手に入れられる可能性は小さな地方都市の中であれば可能性無きにしもあらず、と言ったところでした。なぜなら、ダゲレオタイプを写す際、ウォルコット・システムはガラス窓のあることを必須条件としていましたが、この恐慌のために廃墟と化した地方都市には、明かり取り用のガラス窓のある手ごろな大きさの町工場があったからです。また、ドレーパーが証明して見せたように、木製の葉巻の空き箱と二個の眼鏡のレンズを手に入れることもさほど難しいことではありませんでした。

しかし問題はそこからで、銀板と薬品をどう扱えばいいのか、そのプロセスの技術的な難しさはまだまだ大きな課題でした。この国においてダゲレオタイプが知られ始めたとは言っても、それはまだ、専門課程で化学を専攻していたか、素人でも化学に素養のあった限られたグループだけのものだったからです。そんな中、ほんのわずかではありますが、ごく一般の人々がダゲレオタイプを始めた動きが見られます。

一人の成功を皮切りに、撮影の広告も登場

1840年1月、ニューヨーク・サンにはマザースという男性がダゲレオタイプに成功した、というニュースが掲載されました。また、その年の夏からはいくつかの都市で撮影する人々が現れ始め、これらの近代的な都市の新聞には、ダゲレオタイプの撮影についての広告が登場するようになりました。それはほんの数行の短いものでしたが、写真家が広告を打ったその始まりは、こんな感じでした。

The National Intelligencer 1840年6月30日
ワシントン発:スティーブンソンは町から少し離れたペン・アベニューにありますミセス・カミングス宅においてダゲレオタイプによる細密画を毎日午前10時から午後4時まで制作しております。皆様のお越しをお待ちしております。

スティーブンソンは、ウォルコットの友人でワシントンにわずかの間滞在し、カミングス婦人宅に間借りしながらダゲレオタイプを撮影していたようですが、7月23日までしかいないのでダゲレオタイプによる細密画を希望される方はお早めに、という広告も後日掲載しています。

しかし、こうした彼らの努力はなかなか報われることはありませんでした。1840年代の終わりごろ、機知に富んだ連中がダゲレオタイプ(daguerreotype)をダロガトリータイプ(derogatorytype まがい物)という皮肉な言い回しで呼んだりしました。この言葉は、失敗したダゲレオタイプに使われることもあったと同時に、プロセスの難しさも示していました。ボストンのダゲリアン・パーラーのオペレーターであったスチュワートは、あまりの批判の多さに窮地に立たされ、こう新聞で呼びかけています。

The Boston Evening 1840年10月14日
紳士淑女の皆さん、これまでのようなものではなく、完全なるポートレイトとするために、細密画(ダゲレオタイプ)の製作を11月後半まで延期いたします。ご了承ください。

スチュアートの呼びかけは、確かにそれが納得できるほどダゲレオタイプの一般的な評判は良くなかったのですが、これは、プロセスそのものの未熟さではなく、明らかに写す側の技術力のなさに問題がありました。そして、世間のこうした認識や一般のダゲレオタイピストたちの化学への理解と技術力を改善したのは、精度の高いダゲレオタイプの展示とレクチャーで、ニューヨークではすでにプロセス公開直後それが開かれていました。

化学の専門分野以外から第一号のプロフェッショナルが誕生

1839年11月、パリのダゲレオタイプ・カメラのエージェント、ガーラウド(Francois Gouraud)がニューヨークにセールスにやって来ます。彼は北米のダゲレオタイプ・カメラのエージェントでもありました。そして12月4日、ホテルFrancoisで、パリから持ち込んだ大量のダゲールと弟子たちのダゲレオタイプと自身の写したニューヨークの風景を展示販売しました。同年12月14日付けThe New-Yorkerによれば、価格は最大で500ドル、その他は30ドルから300ドルでした。招待客の中にはホーン(Philip Hone)の姿も見られました。ホーンは1828年から51年まで膨大な日記を書き続け、その日記は19世紀のアメリカの代表的な記録の一つとして知られていますが、この日の日記は数ページに渡りダゲレオタイプを目にした感動が綴られています。

展示は大成功でそのプロセスをぜひ見たいという希望者が多く、ガーラウドは一人1ドルを徴収し、期間中1日2回のレクチャーを行いました。それまでダゲレオタイプ・プロセスは、大学の研究所か化学の素養のある連中がグループになって研究しており、一般の人々が実際に薬品の役割を学んだり、デモンストレーションを見たりできる場はありませんでしたから、これは画期的なことでした。受講者の中にはさらに熱心に追加のレクチャーを望む人々もいて、ガーラウドは彼らのために個人授業も行いました。受講した彼らは、間違いなく化学の専門分野以外からプロフェッショナルとなった第一号です。

しかし、これに気をよくしたガーラウドの頭には、カメラのセールスではなく自身のアイデアで成功するという考えが浮かび、何としたことかこのレクチャーの後、自らをドクター・ ガーラウドと名乗り、いんちきな薬や化学薬品の販売に乗り出します。

ガーラウドと、モールスと彼の友人たちは、お互いに同席することを徹底的に避けるようになりました。これはガーラウドのモールスに対する嫉妬であると同時に、モールスの側からすればガーラウドはプロとしての品位を損ねる鼻持ちならない嘘つきな男だったからです。そして、ニューヨークやボストンの新聞には、双方のダゲレオタイプ・プロセスに対する理論的な見解の違いや確執が面白おかしく書き立てられ、このことがダゲールの耳に入り、ついにはダゲールがガーラウドの見解を退けるに至りました。

が、それでもなお、ガーラウドは性懲りもなくウォルコットやドレーパーの考えをほとんど引用して「ポートレイト作成のための条件」という国内初のマニュアルをボストンで1840年に発行し、ダゲレオタイプ撮影の何たるか、を紐解きました。

プロセスの改良が押し進めたダゲレオタイプの普及

さて、ダゲレオタイプが始まって一、二年以内にいくつか改良された点があります。まず一つ目はダゲールの旧知の友人フェズール(M.Fizeau)が1840年の夏、後にギルディングと呼ばれる方法を見つけました。これは光と影のコントラストをより強調し、プレートの恒久性を向上させるために、撮影後の銀板を暖め温度を上げるというものです。

二番目はクイックという名の感光乳剤の開発です。これはウォルコットによって開発され、その内の一つ、ウォルコット・アメリカン・ミクスチャーはそれまで数分かかっていた露光を数秒に縮めました。またレンズの改良も行われ、ダゲレオ用のより明るいレンズが開発されました。中でもウイーンのペッツバル(Joseph Petzval)によって開発されたPetzvalレンズは大変に優れており、ウォルコット・システム、ウォルコット・アメリカン・ミクスチャー、Petzvalレンズの組み合わせはダゲレオタイプを作る際の最強のコンビネーションでした。

三つ目はカラーリングです。ウォルコットはアメリカの写真に関するパテントの登録第一号でしたが、3番目から5番目までのパテントはプロセスに関してであり、そのどれもがカラーリングに関するものです。一番早いカラーリングのパテントは1842年3月28日で、少量の染料を水で溶きラクダの毛の上質なブラシで着彩するというもので、ダゲレオタイプをより一層魅力的に仕上げました。そして、これらの改良は、一般への普及をより推し進めました。

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安友志乃 Shino Yasutomo

文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。

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