人々の歩み

ウォルコットとジョンソン

第一章 1839-1845 ⑤

二人の青年の自由な発想とひらめきが歴史を塗り替えた

1839年10月6日、ニューヨークの歯科器具用品メーカーの職人で化学の知識を持つウォルコット(Alexander Simon Wolcott)は、友人の時計宝飾店の修理工ジョンソン(John Johnson)から公開されたダゲレオタイプ・プロセスのメソッドのメモを渡され、それを食い入るように見つめていました。この時、ウォルコット35歳、ジョンソンはまだ26歳という若さでした。そして、この二人は、それまでの高齢の化学者たちと違って蓄積した知識や化学者同士のしがらみなどどこにもなく、自由な発想とひらめきで歴史を塗り替えてゆくことになります。その証にウォルコットは、メソッドを見てダゲールの方法とは異なったやり方で露出を改良する方法をすぐさま思いつき、一晩でカメラを組み上げ、ジョンソンのポートレイトを撮影するのです。

ウォルコットのアイデアは、カメラ・ボックスの中に凹面の反射鏡を入れ、レンズの代用として像を反射させ銀板に写す、ということでした。後日1840年3月13日のジョンソンの私信によれば、ウォルコットは1839年10月のうちにカメラを組み上げ2x2インチの小さなサイズのポートレイトを撮影した、とあります。つまり、先のドレーパーの鏡を用いるアイデアは、ウォルコットの発明に影響を受けていたことは間違いありません。また、1846年のジョンソンの私信によれば、ウォルコットのポートレイトは1839年10月7日にジョンソンを写したものである、としています。ジョンソンの主張が正しいとすれば、世界初のポートレイトは1839年10月7日ウォルコットの写したジョンソンということになります。そして、ウォルコットにしても、ドレーパーにしても、当時の彼らのダゲレオタイプは単にそれが写真というだけでなく、発明の証そのものである、と言うことができます。

人々が待望した世界初のポートレイト用カメラ

ウォルコットはまた、最初のポートレイトを写したばかりではなく、American Repertory(1840年4月号)に自身のカメラについての解説を掲載しました。そして、1840年5月8日、彼のカメラ、ウォルコット・カメラはアメリカ初の写真に関する特許(パテントNo.1582)を取得しました。このカメラは、明るい太陽光の元で露光時間を約90秒までに縮め、小さなダゲレオタイプを写すことのできるポートレイト用の画期的カメラとして人々に愛されました。

ウォルコットの活躍は、この初期の段階において非常に驚くべきことであると同時に、大成功しました。世界初のポートレイトを撮影し、人々が最も望んでいたポートレイトを撮影できるウォルコット・カメラを発明したばかりでなく、ジョンソンとともに1840年3月、ニューヨークに世界初の写真スタジオをオープンしました。当時こうしたスタジオは、ダゲリアン・パーラーまたはダゲレオタイプ・ポートレイト・ギャラリーと呼ばれていましたが、ウォルコットのダゲリアン・パーラーは「ウォルコット・システム」と呼ばれる採光を中心にした全面改装がなされた完全なシステムが組まれていました。1840年秋にはコーネリアスも彼のパーラーを訪れ、ライティングの方法を学び、フィラデルフィアで初のダゲリアン・パーラーを開きます。

このウォルコット・システムだけがダゲレオタイプを写す際のアメリカのシステムではありませんでしたが、少なくともその初期にあたる1840年から41年にかけてアメリカのダゲレオタイピストたちはウォルコット・システムを使用していました。またウォルコット・システムはイギリスでも使われました。そして、このシステムは、現在のスタジオの基本へとつながっているのです。

イギリスに渡ったウォルコット・システム

1840年の初め、ウォルコットとジョンソンは、このウォルコット・システムとカメラを海外でも紹介することに決め、ジョンソンの父ウイリアム(William S Johnson)にカメラを委託し、ロンドンへ向かってもらいました。その結果、ウイリアムはタルボット(William Henry Fox Talbot)のレップ、カープミール(William Carpmael)にビアード(Richard Beard)を紹介され契約を結びます。

実は、ダゲールはフランス学会でダゲレオタイプ・プロセスを公開すると同時に、莫大な年金を条件にパテントフリーとしましたが、ことイギリスにおいてのみ、フランス学会公開の一ヶ月ほど前にダゲレオタイプ・プロセスの特許を申請したのです。これは、ダゲールと同時期にネガ・ポジ法を考案していたタルボットを意識してのことです。そのため、ダゲレオタイプ・プロセスにせよタルボットのネガ・ポジ法にせよ、当時のイギリスで写すとなると材料を購入する際、あるいはスタジオをオープンする際にはパテント使用料を払うほかなく、イギリスでは、タルボットが写真家たちとの裁判に明け暮れついに根を上げる1854年までおよそ15年間も自由に写真を写すことはできなかったのです。

発明者に関わりなく莫大なパテント料が動く

人々の写真に対する熱狂と、日々加熱するタルボットの裁判沙汰を面白く眺めていたビアードは、石炭業を営む事業家であり特許投機家でした。つまり、ビアードの考えは、ウォルコット・カメラのパテントを買い取り、いかにプロセスの論争をかいくぐり儲けるかにありました。このビアードとタルボットを引き合わせたのはカープミールで、そもそも彼はタルボットのレップでしたからタルボットにとってはまるで悪夢のような話でしたが、おそらくこの時カープミールは相当な謝礼をビアードから受け取ったはずです。

そして、ビアードは、ロンドンにゴージャスなダゲリアン・パーラーをいきなり開き、化学者ゴダード(John F. Goddard)を雇い入れオペレーションを任せるとイギリス中にダゲリアン・パーラーをチェーン展開しました。ビアードの公の主眼はダゲリアン・パーラーであり、そこで使用されるウォルコット・カメラのパテントも所有しており、プロセスは成り行き上必要であるに過ぎず、その独自の開発はゴダードに任せている、という具合でしたから、化学プロセスに執着し論争に明け暮れているタルボットなど馬鹿ばかしく見ていました。そして、日の沈まぬ国と呼ばれるほどに植民地を所有していた女王陛下の君臨する地であれば世界中どこにでも合法的にダゲリアン・パーラーを開くことができたのですから、笑いが止まらぬほど儲かったのです。

ビアードはまた、ジョンソンもニューヨークからイギリスに呼び寄せ、翌41年にはウォルコットもジョンソンに合流させると、あちこちでウォルコット・システムとカメラ、ダゲレオタイプ・プロセスを紹介し、二人にダゲリアン・パーラーの開業をサポートさせました。

ウォルコットはイギリスに3年間滞在し、帰国後1844年11月10日、コネチカット州サンフォードで40歳の若さで亡くなっています。アメリカは、まるで彗星のように現れたこの優秀な人物を亡くしたのです。彼が生きていたら、次の世代のガラスの上に像を定着させるアンブロタイプももっと早くに考案され、アメリカはその栄光に与ったはずです。ウォルコットは亡くなる前年、このことを試そうとしていたのですから。

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